全国高等学校野球選手権大会といえば、各都道府県の代表校が集い、負けたら終わり、同時に多くの高校球児が野球部を引退する最後の大会として有名です。
そんな全国高等学校野球選手権大会に「敗者復活制度」があったことはご存じでしょうか。
涙を流して甲子園の土を集める高校球児が聞いたら驚くような事実ですが、いつそんなことがあったのか解説します。
敗者復活制度があったのは、第2回大会と第3回大会のみ
高校野球に敗者復活制度があったのは、第2回大会(1916年)と第3回大会(1917年)のみです。
1915年の第1回大会と翌年の第2回大会は阪神甲子園球場ではなく、大阪の「豊中球場」、第3回大会は兵庫の「鳴尾球場」で開催されました。
また、当時は1948年の学制改革前であったたため、全国高等学校野球選手権大会ではなく、全国中等学校優勝野球大会という名称でした。
その中で物議を醸したのは、第3回大会。
前年から敗者復活制度が導入されていたはずですが、ついに敗者復活により勝ち上がった愛知一中が優勝してしまったのです。
もちろん敗者復活とはいえ、正当なトーナメントを勝ち上がってきた訳ですので、問題はなかったはずですが、納得がいかないのは高校野球ファンでした。
「一回戦で負けたはずの学校が、なぜ優勝するのだ」
しかもこのときの敗者復活制度には、「敗北した6校のうち、4校が復活する」というくじ引きによる運要素もあり、視聴者は余計に納得できないというものでした。
これにより翌年の第4回大会以降は敗者復活制度はなくなり、現在まで続いています。
このような経緯があるため、おそらく今後も敗者復活制度が設けられることはないと思います。
今では考えられない全国高等学校野球選手権大会の敗者復活制度には、このようなエピソードがありました。
当時、愛知一中には批判が集中したそうです。
選手たちは頑張っただけなので、可哀そうでしたね。